LOGIN夏のある日のこと。
無明は邸をこっそり抜けて、裏手にある泉の方へ歩き出した。日差しは強く、じりじりと生白い肌を焼いた。
藍歌が珍しく本邸に呼ばれているため、今が好機と従者の目を盗んで邸を出てきたのだ。
森の入り口近くにある泉のため、ひとりで行ってはいけないと言われていたが、どうしても行ってみたかったのだ。
昼前なのに森の中は薄暗く、ひんやりとしているせいか汗がひいていく。北の森とは違い、怪異はほとんど起こらない小さな森だが、七歳の子どもがひとりで来て良い場所ではない。
少し歩くと開けた場所に出て、光が射して眩んだ視界の先に広がったのは、透明度の高い澄んだ泉だった。そこは地面から湧き出る霊泉で、霊力や傷を癒す効果があるらしい。
「綺麗な泉だなぁ。見る角度で色が変わって見える。まさに霊泉って感じだね!」
透明なのに光の反射で青や緑に色が変わるのが面白く、思わず泉の周りを歩きながら目を輝かせる。
金虎の公子なのにもかかわらず、従者が纏う黒い衣を纏っており、腰まである黑髪は頭の天辺で赤い紐で適当に括っていた。
額から鼻の先まである仮面を付けた少年は、表情が見えないが楽しそうに弾んで歩いている。手には竹筒の水筒。目的は霊泉の水を汲んで持って帰ることだった。
邸からほどんど出られないため、藍歌がたくさんの本を持って来てくれるのだが、書いてあることは実際目で見て確かめてみたいし、触れてみたい。
(汲んだらすぐ戻らないと)
無明は草むらに膝を付いて、前に屈むとやっと竹筒の先が届く。短い腕ではぎりぎりの位置で、なんとか少しずつ水が溜まっていく。
しかしあと少しでいっぱいになるというその時、急に身体が前に傾いだ。
「え?」
集中していた無明は無防備で、後ろに現れた影にまったく気付かなかった。背中を強く押された感覚があり、その後はもう水の中だった。氷水のように冷たい霊泉は子供にはとても深く、藻掻いても浮かび上がれない。
(····まずい······息、が、)
油断していた。何に押されたかもわからない。人か、それとも妖か。けれども今のこの状況では何も考えられなかった。キラキラと光るのは太陽の光なのか、それとも苦しくておかしくなった自分の頭の中なのか。
遠のく意識の中で、唇に柔らかいものが触れたような感覚があった。
小さな手で頬を覆われ、肺に空気が送られてくる。こぽっと気泡がいくつか周りに生まれた。
そのまま下に沈んでいくのとは反対に、今度は浮かび上がる感覚があったが、意識はそこで途絶えてしまう。
「――――――っ!?」
はっと目が覚めた途端、急に空気が肺に入ったせいか思い切り咳込み、はあはあと肩で息をした後、薄く瞼を開けば太陽の光で目が眩んだ。
水でびしょびしょになった衣は肌にはりつき重たく、痛む肺と痺れたような頭の感覚で身体を起こすのは無理だと思い知る。
「もう少し横になっていた方が良い」
眩しそうにしていたのを気遣ってか、優し気な雰囲気の少年の声と共に、冷たい手の平が瞼に落とされる。
「····かえ、ら、······ない、と、」
どのくらい時間が経っているのか解らない。早く邸に戻らないと。帰らないと。しかし、やはり身体が思うように動かない。
「わかった」
薄っすらと瞳に映ったのは、同い歳くらいの少年。肌は自分よりもずっと生白く透き通っていて、瞳は金色をしていた。
臙脂色の衣を纏った少年はどこからか取り出した黒竹の横笛を口に運び、音色を奏で始めた。その音色も曲も聴いたことがないのにどこか心に響き、安らぐ。
ふらふらと横笛の先に付いている藍色の紐で括られた琥珀の飾りが、ぼんやりとしている視界の先で揺れている。
(····だんだん楽になってきたかも)
物悲しいような、しかしどこか懐かしいと思うようなその曲と、落ち着く音色が、バクバクしていた心臓を落ち着かせ、頭をすっきりとさせてくれる。
一曲終わる頃には、視界ははっきりとし始め、指先も動かせるようになっていた。
「ありがとう。助けてくれて」
「いいの? お礼なんか言って。俺が君をつき落としたのかもしれないのに?」
軽い口調で、まるでそうだとでも言いたいかのように少年は言った。けれども無明は確信があった。
「それは、違うと思う」
「そう? ならそうかもね」
ふっと笑って肩を竦める。不揃いな肩くらいまでの細い髪の毛は結っておらず、前髪が長い。是非はこの少年には興味がないようだ。左耳の飾りが反射してキラリと光る。
少し意地悪そうな、けれども優しそうな金の瞳が珍しくて、どうしても見入ってしまう。仮面越しに眼が合った気がして、思わず視線を逸らした。
「笛、綺麗な音だった。俺も練習したら上手く吹けるかな?」
藍歌の琴の音が好きで、時々触らせてもらうことがあった。楽器は興味があり、笛も少しだけ吹いたことがあった。
あまり上手ではないが。
さっきのような音色を奏でられるなら、もっと頑張ってみたいと思った。
「できるよ。教えてあげようか?」
言いながら、背中に手を添えて無明を起こしてくれた。含みがあるが嫌みのない声。
ずっと聞いていたいと思う声音は、先ほどの笛の音のようだ。
「うん、でもね。俺は、本当はひとりで邸から出ちゃダメなんだ」
「そっか。じゃあこれをあげる」
はい、と少年は自分の持っている横笛を腰に差し、代わりに違う横笛を手に取って目の前に差し出した。
見た目は普通の竹笛だが、上等な宝具のようだった。先の方に赤い飾り紐が括られていて、竹も艶があって美しかった。
「あ、えっと、いいの? ありがとう」
どうしてこんな高価なものをくれるのかと不思議に思ったが、少年があまりにも簡単に手渡してきたので、思わず受け取ってしまった。
「その仮面、」
顔を覗き込んで、少年は首を傾げる。無明は身構えて、初めて自分を見た者が口にするだろう言葉に緊張する。
(なんで仮面なんか付けてるんだって、言いたいんだろうな)
「格好いいね。俺も真似しようかな」
「え? 変、じゃない?」
「なんで? その仮面が変なら、俺の眼の色の方がずっと変でしょ?」
金色の眼を指差して、少年は言う。無明は指差したその瞳をじっと見つめて、首を振った。
「ううん。綺麗。お月様みたい」
逆に今度は少年が驚いて瞬きをした。そして少し俯いて、ありがとうと呟く。
「あ、もう、行かないと!」
無明は何事もなかったようにすくっと立ち上がって、衣の裾を絞る。絞るたびに足元に水が滴った。ある程度軽くなった衣に満足して、よしと頷く。
「走って帰れば乾くかな? まあ、適当に誤魔化せば大丈夫っ」
「これ、忘れ物だよ」
はい、と霊泉の水がたっぷり入った竹筒を手渡す。右手に横笛、左手に竹筒を掲げ、無明はありがとう! と礼を言う。
すっかり回復した身体を確認してから、もう一度頭を下げて少年に挨拶をすると、
「助けてくれて本当にありがとう! またねっ」
言って、森の方へと駆けて行った。
病鬼は朎明に至近距離で霊弓の矢を突き付けられても、身体を起こしただけで、にたにたと笑うばかりだった。含みがあり気味が悪いその笑みはどこまでも不気味で、この鬼の底知れないなにかを感じさせるにはじゅうぶんだった。「お前の主はどこにいる?」 とにかくなにか聞き出せることはないかと言葉を紡ぐ。これが本当に病鬼で、間違いなく特級の鬼なのか。 今のところそれを裏付けるものがない。守り刀の光で、いとも簡単に弾き飛ばされた事実がある。本当に特級の鬼なら、そんなものは効かないだろう。「なんのために都に疫病を齎した?」 朎明はつがえたままの三本の矢の先を向け、問う。やせ細ったその鬼は、にたりと笑いながらこちらを見上げてきた。「なんのためぇ? そんなのきまってんだろうぉが!」 はっと朎明は身構える。それは、目の前の鬼が急に手を掲げたからだった。思わず後ろに飛んでそれを躱し、そのまま矢を射る。矢は三本とも正確に病鬼に向かって行ったが、異常な身のこなしですべて外された。矢は霊力で作られた物で、地面に突き刺さるとそのまま消えた。「こうやってぇ、操るためさぁ」 病鬼の足元に赤黒い陣が浮かび上がる。陣から放たれたその赤黒い光の柱は一瞬にして闇色の空に伸びると、地面と同じ紋様が天に広がり都の上空を覆った。その光は悍ましい気配を纏い、辺りを不穏な空気に変えてしまう。(広範囲の陣····、なにをするつもりなんだ) 操ると病鬼は言った。嫌な予感が過る。「俺の本当の能力は、疫病を撒き散らす病鬼の力ではなく、俺が喰らった妖鬼の能力を操ること、」 朎明の横に、白笶と竜虎がそれぞれ駆け寄る。清婉は宿の中に避難させ、被害が及ばないように白笶が結界を施した。「俺の通り名は梟。お前ら術士からは特級の鬼と呼ばれている」 先程までのやせ細ったぼろぼろの衣を纏う病鬼の姿はなく、代わりにそこに現れたのは、美しい容姿をした青年のような姿の妖鬼だった。 分けられた前髪は頬にかかるくらい長いが短い黒髪で、瞳は漆黒。すらりとした細身だが背が高く、白笶と同じか少し高く見えた。消炭色の暗い灰色がかった衣を纏い、右腕に金の輪を付けており、切れ長の両眼の端が赤い色で彩られていて、男の姿をしているのに色っぽくも見えた。「梟····確か、」「ああ、変化を得意とする特級の妖鬼」 しかし梟という妖鬼は、玉兎で
先の方が少し癖のある、綺麗な黒髪をゆっくりと時間をかけて櫛で梳く。座らせている大事な"お人形"の髪を整える。あの時見たものと同じように、丁寧に左右のひと房を赤い髪紐と一緒に編み上げ、後ろでひとつに括る。残りの髪の毛は背中に垂らした。 着替えさせた白い神子装束は袖の辺りに赤い紐が飾られており、中に着せた赤い上衣が透けて見える。帯は上下に銀の横線が入っていた。 されるがままになっているその"お人形"の翡翠の瞳は、真っすぐに前を向いているがなにも映していないようだった。 ふたりの後ろにはもう一体、同じ背丈同じ髪形同じ格好をした人形が、椅子に座らせられている。違うとすればその人形の瞳はなく、真っ暗な空洞がふたつあった。 心なしか微笑んでいるようにも見える。滑らかな白い肌。真っ赤な口紅。まるで人間のように精巧なその人形は、今にも動き出しそうだった。「お化粧もして口紅も塗ってあげましょう。綺麗にして、みんなに見てもらいましょうね。ぜんぶ終わったらあの可愛らしい痣も切り取って、お人形に付けてあげる」 着替えをさせた時に見つけた、腰の辺りにあった五枚の花びらのような薄紅色の痣。蘭明は痣のあった腰の右側の辺りに触れ、ふふっと笑みを零す。 人形を完成させる。 ただそれだけのことで、あのひとの役に立つというのなら。「あなたが悪いのよ?」 化粧を施しながら目元を親指ですっと撫でる。藍歌に会った時からずっと気になっていた。あの瞳の色はどこまでも美しく誰とも違う色。しかし藍歌は金虎の宗主の第二夫人。手は届かない。 けれども、第四公子は違う。金虎の厄介者で有名だったこの子は、誰にも必要とされていないはずだった。あの日、奉納舞を舞った彼はどこまでも美しく唯一無二だった。あの場にいた誰もが思ったはずだ。 そんな子がなぜか紅鏡から外に出された。あのひとの言った通りになった。あの黒装束の女のような口調の男が、あの夜に言ったその通りに。「あなたは特別な子。あのひとはあなたを殺すなとは言ったけど、それ以外の事はしてもいいと言ったわ。自分の欲望のままに、」 完璧な人形を作る。それが自分の望み。あとはそう、"いらないもの"を処分するだけ。ぜんぶ真っ白にして、あとは自分の思うままに初めから作り直すことで完璧な存在となる。 自分を要らないと言った、宗主や妹のように。 要らないモノ
紅鏡。奉納祭の夜。 無明が毒紅の件で、虎珀の伯父である周芳の目論みを暴き、投獄された後に話は戻る。 その話は他の一族たちの耳に入ることはなかった。金虎の一族の中でも一部の者たちだけが知る事実として、他言無用と箝口令が敷かれたのだ。 そんなことが起きていたとは知りもしない蘭明は、毎年欠かさずに訪れているある場所に足を向けていた。奉納祭の後は静寂だけが残り、あんなに賑やかだった邸の中は今はとても静かだ。 金虎の本邸。 時折、本邸の従者たちとすれ違ったが、その度に丁寧に挨拶をする蘭明は従者たちの間でも好印象しかない。 彼女の行く先を知っている、長く金虎に仕えている老巧な本邸の従者たちは、誰一人として止める者はいなかった。手には菓子の入った、艶やかな黒が美しい小さな取手付きの重箱が握られていた。 向かう先は金虎の第一公子である虎珀の部屋だった。 本邸はとても広く、知らない者はもちろん来て間もない従者は必ず迷う。それくらい部屋の数も多く、入り組んだ廊下やわざと迷わせるための工夫がされてある。同じような通路がいくつもあって、そのどれかは行き止まりだったりするのだ。 宗主や夫人の部屋に関しては、お付きの従者しか解らないようになっている。公子たちでさえも、ひとりで訪れることはない。呼ばれるか予め約束をして、従者に案内してもらうのが規則となっている。 公子たちの部屋はそこまでは複雑ではないため、何度か訪れていれば迷うことはない。蘭明は幼い頃から仲良くしている虎珀に、毎年奉納祭の夜に逢いに行くのが恒例となっていた。「虎珀兄様、蘭明です」 部屋の前で声をかける。少しして、奥の方から足音が近付いて来るのが解った。扉の前でその音は止まり、「蘭明?」と声が返ってきた。「はい。手作りの菓子を持ってきました。よかったら一緒にどうですか?」 ゆっくりと開かれた扉に先に、いつもの笑みがあった。蘭明《らんめい》はその穏やかで誰にでも優しい笑みが、幼い頃から好きだった。「わざわざすみません、せっかく来てくれたのに。今日は少し疲れてしまって········ご一緒したい気持ちはあるのですが、」「いえ、私の方こそすみません。では菓子だけ置いていきます。よかったら食べてください。前に虎珀《こはく》兄様が好きだと言ってくれた、杏子の砂糖漬けです」 手に持っていた小さな重箱を渡し
竜虎たちと落ち合う前。 無明は白笶に背負われていた。最初は抱き上げられたのだが、それはちょっと····と困った顔で嘆願したら、結果このようなことになったのだ。 白虎との契約を終え、堂を後にしたふたりだったが、都の外れにある姮娥の邸までは距離がだいぶあった。夕刻はとうに過ぎており、薄暗くなってきていた。 今はその闇が降りつつある空の上から、都を見下ろしている。灯りはぽつぽつと点いているがどれも疎らで、本来の都であればもっと多くの光があったことだろう。ぼんやりと浮かぶ半月の方がずっと明るく感じた。 春も終わり夏を迎える今の頃は、この時間でもそこまで寒さは感じない。 薄墨色の空を行く白笶の首にしっかりと腕を回して、無明は下に広がる寂しい光を見つめていた。「白笶。これから俺が話すこと、ダメって言わないって誓える?」「······誓う」 理由は訊かずに、しかし少し間をおいて白笶は答えた。本当なら内容次第で止めていてもおかしくはないのだが、本人の中でもう決まっているのだろうことに対して、それをしても意味がないと解っていた。「竜虎たちの集めた情報も聞いてからでないと確信は持てないけど、少陰様の話を聞く限り、たぶん、狙いは俺だと思う」 耳元に近い位置にある無明の声は、どこまでも明るく、不安など全く感じさせない。そのすぐ後に肩に埋められた顔は、白笶には見えるわけもなく、ただ少しだけ左肩があたたかかった。「どういう風に相手が動くかは予想でしかないけど、たぶん、白笶たちは邸にすら入れてもらえないかもね」 わざわざ自分の邪魔をする者たちを招き入れるはずはない。宗主が不在ならば、無明が神子であることを知らない可能性の方が高い。それでも自分を狙う理由として考えられることは、ひとつ。「失踪した少女たちの特徴を聞く限り、今都で起こっているふたつの事件は、いずれもひとつの物事を覆い隠すためのまやかしみたいなもの」 病鬼による疫病と、少女たちの失踪。宗主が倒れ、三女も消えた。姮娥の一族で残っているのは長女と次女のふたり。そのどちらかがこの事件に関わっている。無明はそう確信していた。「会ってみない事にはなんとも言えないし、実際、少女たちがどうなっているかは俺にも予想できない。最悪の事態も考えられる····そうでないことを願いたいけど」「奉納祭の夜に、長女の蘭明が数刻ほ
清婉がまだ邸にいた頃、竜虎たちは宿の一室で向かい合っていた。一番広い部屋を用意してくれた女将の気遣いが、逆に心苦しい。なぜなら、三人はその広い部屋の真ん中に集まり、その他の空間が完全に無駄になっている。 朎明の月のように冴え冴えとした右目の下にある小さな黒子は、彼女の美しさに加えて神秘さを纏っている気がする。彼女が必要以上に言葉を発しないことも、その要因のひとつかもしれない。 しかしこの場で話さずに、いったいどこで話すというのか。白笶は案の定ただ座っているだけで、なにも言わない。なので竜虎はそれを聞き出すのは自分の役目と思い、自ら話を切り出す。「朎明殿、俺たちは怪異をなんとかしたいと思っている。こうしている間にも都は疫病で溢れ、行方知らずになっている妹君の身も危うくなる。こちらがすでに得ている情報と、君が知っている事、それを照らし合わせることで、もしかしたら解決できるかもしれない」 紫苑色の瞳は真っすぐに朎明を見つめ、なんとか堪えた声音は部屋にやんわりと響いていた。それが功を奏したのか、重たい口が少しだけ動いた。 彼女がここに残っている時点で、なにか言いたいことがあるのだと察してはいたが、言葉を紡いでもらうのに予想以上の時間がかかった。「姉上は、あの紅鏡での奉納祭以来、人が変わってしまった。正確にはその夜。姿が見えなくなって、私たちは姉上を捜し回ったのだけど、見つからなかった。しかし諦めて帰って来てみたら、いつの間にか姉上も戻っていて。私たちはそれで安心していたんだが······、」「なにか、変化があった?」 こく、と朎明は頷く。薄桃色の紅に彩られた唇を噛み締め、俯く。「急に私と母上への態度が変わってしまったんだ。ずっと優しくていつも柔らかく笑っていたあの姉上が、あんな風になるなんて、絶対におかしい。姿が見えなくなったあの数刻の間に、何かあったとしか思えなかった」 円卓の下で握られた拳が、固く握られる。「玉兎に戻ってからも部屋に籠りがちで、時折夜に出かけることがあったが、気分転換に外に出ているのだと思っていた······けれど、その頃から都で少女の失踪事件が起こり始めて、私も母上も気が気ではなかった」 関りはないと信じていたが、蘭明の言動がふたりを一層不安にさせたのだった。「姉上は人形を作るのが昔から好きで、自分で衣裳も縫っていた。私や
その一部始終を目の前で見ていた清婉は、両手で口を覆い、息を殺してその場を去る事しかできなかった。それは蘭明が戻ってくる前に、無明に告げられた約束のひとつだった。 声を出さず、物音を立てず、何が起こっても決して何もしてはいけない。(必ず、助けに戻ります!) 扉の向こう側へと消えてしまったふたりを確認し、清婉は焦る心をなんとか抑え、ゆっくりと扉を開けて廊下へと出る。すぐ近くに、警護の術士たちが何人かうろうろとしていた。その横を通る時は、本当に心臓が止まるかと思った。 符の効果がいつ切れてもおかしくない。 今は誰にもその姿が見えていないようだが、無明がああなってしまった今、いつ晒されるかもわからないのだ。 しかし、警護の術士たちは清婉が横を通っても誰も気付くことはなく、虚ろな眼差しで立っている。その目は、まるでさっきの無明のように、なにも映していないようにも見えた。(無明様。どうか、無事でいてくださいっ) 祈るように、白い守り刀を胸元に貼られた符ごと握りしめる。言われた通りに門の方へは行かず、低い塀を見つけてよじ登り、どうにか誰にもバレずに邸を脱出できた。 竜虎たちは都の市井の宿にいるはずだ。夕刻近くまで回っていた限り、公子たちを泊められるような立派な宿は、あそこしかなかった。 月明かりが照らす広い路を駆ける。宿まであと少しという所で、清婉の視界にひとつの影が映り込む。思わず足を止め、前を見据えれば、酔っぱらっているかのようにふらふらと路の真ん中を歩く人影が見えた。それはどんどんこちらに向かってきているようにも思える。(あ、あれは、······なんです?) 遠目でしか確認できないが、明らかに不審な影であった。後ろに下がろうにも前に進もうにも躊躇ってしまう。 歩いていたその人影が、清婉の姿に気付いたのか、俯いていた顔をゆっくりと上げた。 そこには、優越感に浸るようなうっとりとした漆黒の目があり、にたぁと口元が大きく歪められた。開いた口には尖った牙があり、明らかに清婉を捉えているようだった。符の効果はおそらく、もう切れているのだろう。 あまりの恐ろしい雰囲気に、足が竦んで身動きが取れなくなる。ただ直立不動に立ち尽くす清婉は、声を殺したまま恐怖で身体が固まってしまった。 その人影は、人ではなく、邪悪な顔をした妖鬼だった。黒い衣はぼろぼろで、袖







